2018/02/04更新

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 この文章は、日本大学習志野高等学校、体育科、教員、宮内の「やれるモノならやってみろ。どうせ狂ったお前の言うことなんか誰も相手にしないんだからな」という同意の元、作成されています。

 上記の異常な発言は、「何をやっているかわかっていますか?世間に問いますよ?」という私への発言への返答です。
 宮内の文言の中に、「狂った」という尋常で無い表現がありますが、これは当時私が担任公認のイジメにより精神安定剤を服用していたためと思われます。担任公認というよりかは、担任がイジメの音頭をとった、と表現するのが正しいでしょう。
 宮内が「正常」な大人であれば、「正常」な教師であれば、イジメの防止に努めこそすれ、音頭を取ることはなかったでしょう。

 未成年が精神安定剤服用に至るのは非常に損です。
 まず、診てくれる医師(児童精神科医というか児童精神科自体)が千葉では極端に少なく、あえて言えば国立国府台病院くらいでしょう。しかし、国府台病院は午前のみの診療で、診療を受けるには学校を午後から登校、すなわち遅刻することになります。そして、日習教師は診療を受けないようにあらゆる手段をとるでしょう。診断書や受診を証明する物を提示したとしても、とにかく遅刻であるとして、殴ったり。

 私は、精神疾患に気づく前に胃潰瘍という身体異常にかかったため、そしてかかった外科の医師が力のある総合病院の副院長であったため、精神安定剤の処方を専門外ですが受けることができました。

 なぜ胃潰瘍なのに外科なのか、疑問に思われる方は多いでしょう。胃は切ったりなど外科的手術を行うことが多いため、外科医がいわゆる「胃腸科医」の仕事をすることが多いとのことです。

 服用に至った日本大学習志野高等学校の有様については以下をご覧下さい。

 日本大学習志野高等学校に入学してから、3年生の11月に退学をするまでの本学での学校生活とその雰囲気をレポートします。
 この学校の本性とは、前時代的な思想の元行われている教育そのものから見えてきます。新校舎を建てたぐらいでは修正不可能な域に達しており、この学校の校風そのものです。



 この学校に入学した当初は平和でした。暴力も悪口もありませんでした。最初数日のオリエンテーションが終わるまではですが。
 オリエンテーションが終わり体育測定が始まる頃、男子生徒よりも早く、女子生徒にグループ化とスクールカーストが現れ始め、悪口が全体の会話の中で大きく占めるようになりました。
 女子同士、楽しく話をしていた相手でも、トイレなどでその人が席を外した瞬間に、その人の悪口大会が始まります。
 ぞっとしました。
 私は男子生徒でしたが、女子グループ(リーダーは後に更に災いとして私の前に君臨するので、とりあえず「鬼魔」という仮名を与えます。)の悪口の対象となり、でも逃げ道となる男子グループはまだ形成されておらず、不安な学校生活となりました。これは入学から1週間程度目あたりです。

 1年次のクラスはある程度クラス運営に熱心な教師で、本人の承諾を得られていないので本名は書けませんが、MNMとしておきましょう。「MNM軍団」と自らが引率をするクラスを称しており、クラス通信などを熱心に製作、発行をしておりましたが、強烈な暴力癖がありました。暴力絶対主義、とでも言えましょう。

 教師が安易に暴力を振るうとどうなるでしょう? 生徒の暴力に対しての壁も同様に低くなり薄くなり、安易に他の生徒や教師へ暴力を振るうようになります。幸い、MNMはいくら生徒を殴っても殴られることはありませんでした。将来の内申書(ポン大進学希望者は特に)などへの影響の懸念が強く作用したのでしょう。

 MNMの尽力によっても、クラスは後ろ向きな雰囲気となりました。運動の苦手な私ですが、体育の時間に無理をしてバスケットボールで点を取りました。激しいヤジが味方チーム、敵チーム、から上がりました。そういうクラスでした。運動の苦手な私は活躍してはならないのです。クラス内ヒエラルキー、「定位置」が厳然と用意されていたのでした。
 そういうヤジも見て見ぬふりをしていたのが、当時体育の顧問であった体育科のN.逸(エヌ・ドット・イツ)でした。Nが何を示すのか。だぎゃあ、の地です。当時の日習では非常に強い権力を持った教師でした。

 私はまず、所謂オタクグループに属します。そして超不運なことに、とある生徒と居合わせることとなります。彼には「テジョン岳」と仮名を与えます。
 このテジョン岳、異常な粘着質で、一度悪口を言い始めると同じ事を飽きずに1日中、いや1週間は平気で言い続ける難物でした。例え一時のもので終わったことでも。
 例を挙げると、テジョン岳がある有名な桃のジュースを校内の自販機で買いました。しかし、テジョン岳の口に合わなかったようです。

 それだけです。

 テジョン岳は数週間はそのジュースとその製造会社の悪口を言い続けていました。

 そしてテジョン岳は家庭内に問題を抱えているらしく、毎日パン食で、買えないとき(N.逸の体育の授業は時間を必ず過ぎて終わるので4時限目が体育だったとき)は他人の弁当を盗み食いするという愚行に走ります。盗みに失敗しバレると今度は強奪に走ります。上手く行かないとその相手の弁当を床にぶちまけるという最低の行為に走ります。私も一度やられました。

 このテジョン岳という人物、行為そのものこそ、日本大学習志野高等学校の校風を象徴する人物でしょう。
 実際、このテジョン岳は生徒会のメンバーでした。


 そして授業が始まります。
 最初の最初ですから、教師もある程度やる気を見せ、生徒もある程度やる気がありました。

 ただし、常識がありませんでした。
 だぎゃあ、いや、N.逸の担当する体育は第一回目からマラソンでした。
 それも、校外を走るというもので、船橋日大前駅の反対側の住宅街を縫うように走るものでした。
 私は水上・水中・雪上ならば人並みですが、陸上はからっきしで、体力勝負の単純競技、マラソンは本当に苦手でした。
 最初は団子の集団にいましたが、徐々に遅れ始め、最後尾集団、、、から更に遅れ、最後尾集団を追いかけていく状態になってしまいました。
 N.逸は先頭を走り、先頭集団にコースの指示をしていました。いわゆる、長蛇の陣、いや、偃月の陣です。
 ずいぶん複雑だった記憶があります。ここを曲がって、そこも曲がって、ここは真っ直ぐ、直後曲がって、、、と。

 それは想像に易い。
 最後尾集団から更に後れた私とあと1人の生徒は、最後尾集団を見失い、迷子となりました。
 駅と学校の間の道ならばともかく、駅の向こう側ですから、土地勘も全くありません。通学に全く使わない道ですから。
 数時間さまよってから、日本大学理工学部のフェンスを見つけて、ようやく学校に帰還できました。
 もう昼休みも終わりの時間でした。
 指導教員であるN.逸は先頭集団が学校に帰還した時点で、さっさとどこかへ行ってしまったそうです。職員室か、2つある体育科研究室のどちらかか、、、、

 終業のホームルームで、私とそのもう1人の生徒は、MNMからN.逸の所へ行くよう指導されました。
 職員室にいるN.逸の所へ行くと、無表情というか仏頂面のN.逸から名古屋弁で罵られ、一方的に滅多打ちにされました。授業(マラソン)を逃げ出したと決めてかかっていたようでした。
 私ともう1人の生徒が、きちんと走っていたけどはぐれてしまった旨を説明したところ、N.逸は、今後男子生徒だけれども女子生徒と同じカリキュラムで体育の授業を受けるか、わざと逃げ出した(サボった)ことを認めるか、どちらか選択を迫りました。
 私はわざと抜け出したわけではないので、前者を選択しました。N.逸に驚きを与えたようです。でもはぐれたとは言え、全力で走っていたわけですから。
 もう1人の生徒は後者を選択しました。擁護になりますが、あまりに遅い私が1人にならないように合わせて付き合ってくれた部分が大きかったのは事実です。ありがとね。

 ただし、学校の敷地に隣接した公道のみ、ならともかく、学校から遠く離れた公道・住宅街を授業で使うのですから、事前にきちんとした準備をN.逸はすべきと考えます。
 一般の常識をわきまえた学校ならば、事前に警察に届け出て、かつコースの途中途中にサポートの教員を配置するはずです。

 マラソン大会なんてそうでしょう。

 これはN.逸にこそ落ち度があります。

 もしそうでないのならば、日本大学習志野高等学校の入試科目に体育を加えるべきでしょう。そして内申書もきちんと見て、体育の評価が1か2の受験生は不合格とすべきです。
 そんな私でも、中学生時代の通知表における体育の評価は常に3でした。ただし絶対評価ですから。相対評価の内申書では確実に1か2となっていたはずです。

 日習は私を不合格とすべきでした。

 それか、N.逸を不合格とすべきです。教員として。
 N.逸は日本大学文理学部体育学科で何を習ったのでしょう?
 N.逸は日本大学文理学部体育学科 ライフセーバー研究会に属していたようです。でもアメフト部と変わらないでしょう。

 N.逸は自分を殴るべきです。
 でも憂さ晴らし、趣味、の如く、生徒を滅多打ちにします。


 そして話変わって、テジョン岳の粘着攻撃に耐えきれず、オタクグループを抜けました。
 私がテジョン岳の集中攻撃対象となったからです。なぜならば、私が決してテジョン岳に弁当を分け与えなかったからでした。
 あの、偉そうに弁当のおかずを乞う姿はあまりに高慢で納得のいく物では無かったからです。

その後、どこのグループにも所属できなかった(当初の友達作りに失敗した)、2人、そうですね、「野球部飽きた」と「友SAWA」とでも名付けましょうか。この3人で新たにグループを作成しました。

 やはり、メインの話題は他グループの特定人物の悪口でした。野球部飽きたは特に激しく、友SAWAは比較的控えめでした。
 私の元いたオタクグループに1人、鈍くさいけれどとても人の良い生徒がいて、その生徒の容姿や仕草、話し方などの悪口が多かったと記憶しております。

しばらく、この3人で過ごすこととなります。他グループと違い、わりかし柔軟で、他グループのメンバーも交えたりして、日習生活では一番まともであった時間でした。

しかし、これも長くは続きません。

 他グループを追放され、放浪していた、見た目も根性も悪い、「四角いイガグリ」と呼びましょう。この者を野球部秋田が勧誘して入って4人になってから、グループの雰囲気が極端に悪くなってしまいました。
 「四角いイガグリ」は元所属していたグループでグループ内イジメを実行しようとしたけれども失敗、そして逆に追放されてきた者でした。

 そして、「四角いイガグリ」は新たに入った私達のグループでもグループ内イジメを敢行しようとしました。「野球部飽きた」はグループリーダー、「友SAWA」は大人しい、よってターゲットは私でした。
 イジメターゲットに私がなる要因はもう一つありました。
 その時、N.逸の担当教科の体育ではバレーボールを行っていました。
 私達は4人グループでしたので、残りのメンバーは他グループから漏れた者を加えてチームを結成しました。

そして、そのグループは負け続けました。

 原因は私です。私は片目に障害を抱えており、私は球技の場合には自分と球との距離を見える球の大きさでしか判断できませんでした。通常の人間はご存じの通り、両目を使い、両目の焦点で球と自分との距離を認識します。私にはそれができませんでした。

 そして、N.逸はバレーボールをやらせては、負けたチームに体罰を加えていました。体罰ではありませんね。単なる暴行です。
 いつも私達のグループはN.逸から暴行を受けていました。

 そして気づきました。暴行を受ける原因は、「ア・イ・ツ」<私 だ。と。

 そしてN.逸から暴行を受けた後、私は「野球部飽きた」と「四角いイガグリ」から腹いせに私刑として暴行を受けました。N.逸は自分が殴る蹴る投げ飛ばす締め上げるをした直後ですので、私が同じグループの生徒から同様の事を更に受けても注意しませんでした。できなかったと思います。まさか「俺と同じ事をお前らはするな」とは言えないでしょうから。。。

そして、私は安住の地であった、「野球部飽きた」と「友SAWA」のグループから追放され、行き場が無くなりました。

 どこのグループにも属せないことはグループによるカースト至上主義のMNM軍団では惨めなものでした。
 昼食時は1人で食べていると、「苦保」「真っ黒」の2人組から嫌がらせを受けるようになりました。この「苦保」と「真っ黒」の2人は、元「四角いイガグリ」のグループメンバーでした。

 1人で昼食を教室でとっていると、「苦保」から香水(匂いの強さからして、トワレ)を頭からかけられ、強烈な匂いを発するようになってしまい、その状態で昼休みと午後の授業を受けたりと度が過ぎていました。

 そして、居場所(いじめを受けなくて済む、物理的な場所)無くなった私は、昼休みは学内をウロウロ散策(徘徊)するようになりました。そうすると鬼魔がグループリーダーを務める女子グループに見つかります。大声で悲鳴をあげられ、鬼魔による私への悪口がスタートします。私は逃げました。特定の場所(人目の少ないトイレや図書室)にいると、嗅ぎつけられて、そこで嫌がらせが敢行されるからです。

 しかし鬼魔によって広められた私への悪口は留まる事を知らず、私の知らない女子生徒が私のことを知っていて、私を見つけると「~あいつって例の」だとか悪口が始まったり、悲鳴を上げて逃げ出されてしまいました。顔も知らない女子生徒が私を見て悲鳴を上げて逃げ出すのはとても苦痛でした。


 MNM軍団は最初の1年目で終了、2年次、3年次は別のクラスとなるので、大人しく、殴られながら、嫌がらせを受けながら、クラス替えを待ちました。

そしてとうとう待望のクラス替え!

しかし同じクラスに「テジョン岳」がいる!

 クラス設定にはもちろん、完全なランダムでなく、偏りが無いよう調整されます。
 その上でテジョン岳と同じクラス。

絶望しました。


そして、担任はとうとう主役の登場、宮内となります。


 宮内は一見気さくな先生で、半分不良の入ったような生徒と冗談を言い合ったり、笑顔で話すので希望を持ちました。
 しかし、それは半分不良の入った生徒がスクールカーストで上位だったからにありません。

私も話す機会がありましたが、半分不良の生徒に対する対応と違い、まるで高圧的で上から押さえつけるような口調で、更に無駄に声がでかい。

この狂師の本性を見ました。

そして、半分不良の生徒からいじめを受け、目の前で殴られているのにも関わらず、宮内は止めないのです!

半分不良の入った生徒の2番頭の山M祐J(以下、山裕)からはこっぴどくやられました。

ですが、不良グループの1番頭の園Dは私には無関心でした。
それだけが福音です。

終業時のホームルームでは、私の左前の山裕と、私の右隣の売春をしていることで有名な女子生徒、Nささヤカが大声で私の頭を通り越して私の悪口を言っています。
ですが、宮内は一切黙らせないのです。

授業中に暴力を受けても、宮内を始め、日習狂師は一切止めないのです!

 そして、そうしたことが執拗に続き、とうとう私は胃痛が始まります。
 最初は腹痛だと思っていましたが、冗談じゃ無いほど痛く、腹にしては随分上の方ですので胃だと指摘されました。

そして、内視鏡検査の結果、胃潰瘍と診断が下りました。
担当医は「こんなに若いのに、胃がこんな風になるなんて…」と驚いていました。

 そして更に過敏性腸症候群という診断が下りました。

 なぜか日本大学習志野高等学校に登校すると、学校が近づくにつれて下腹部が重く、痛くなりました。
 この便意を、7時間我慢しなければなりません。拷問です。
 1度保健室へ行きましたが、「あなたは本当は病気や体が悪いわけじゃない。ここ(保健室)は私の家みたいなものだ。簡単なことで来るんじゃない」と保健室を出入り禁止となってしまいました。
 誤解の無いよう申し上げると、現在の保険医とは違う保険医です。

 そうして、私は学校を不登校気味となります。新京成線の松戸から津田沼まで、毎日数往復して、何事も無いように家に帰るような日もありました。

 そして、担任の宮内から、そうした病気ならば診断書を提出すれば、出席日数が多少足りなくても大丈夫、という電話が来ました。

私は診断書の提出に絶対反対致しました。宮内はそこまで信用の出来る教師ではない。

 しかし、私の頭越しに診断書が宮内に渡ってしまいました。。
 宮内は診断書をご贔屓の半不良の生徒に回し読みをさせていたのです!

 私が何の書類をみてアイツらは盛り上がっているのだろう?と恐る恐る近寄ってみてみると、私の診断書でした。そして1番頭の園Dが、「かびんせいちょーしょーこーぐんてなあに?」と宮内に聞くと、宮内は「うんこの出たくなる病気だ」と答えました。

私の呼び名は「うんこ病」となりました。

それを知った担当医は、「日大習志野って日大の教師だろ!だからそんなバカばっかり通じるんだよ!」と激高しました。

昨今の日大を取り巻くテレビニュースを見ると、うまく予言したな、と思います。

つづく